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私の育った環境:環境が及ぼす身体への影響

私には、2つ下の妹がいます。両親と家族4人で育ちました。

私の母は過干渉で、私が結婚5年目にできたということもあり、とても溺愛してくれました。

それは嬉しい事なのですが、私に対して母親は物のように扱うことが多かったんです。
することは全て母親が決める、私が何かしたいと言っても、危ないからとか、今はダメと言って
私の意見を受入れてくれませんでした。

子供心に、お母さんは僕の事が好きじゃないんだと思ったこともあると思います。

公園へ行っても、あの乗り物は危ないからダメよ、といい自由に遊ばせてもらえませんでした。

そんな繰り返しの中、小学生にもなると、言ってもムダだという気持ちから自分の気持ちを吐き
出すことができなくなっていました。

妹も同じ扱いです。2人で母親の敷いたレールの上を歩き続けてきました。

こんな小学校生活を送ってきました。

母親がうるさく感じてくる

私と妹は、過干渉な母親に毎朝学校へ行く前に、「ハンカチ持った?」「爪切った?」

と聞かれていました。

それには理由があり、小学校では毎日、ハンカチ、爪伸びの検査があったんです。母親の気持ちは、
私達兄弟にハンカチがないと困るから言っていたのではなく、検査結果だけを気にしていました。

その結果は、参観日でも廊下に貼り出されました。そう、母親は、他の子と私たちを常に比較し、
完璧な子供であるとアピールをしたかったんです。

もう一つ、週3回ほどの漢字テストがありました。10点満点のテストで、私は常に10点を取り続け
ており、9点の時はメチャクチャ怒られました。

毎朝聞かれることに、「漢字テスト見直した?」というのもありました。

もう友達が家の前まで迎えに来ているのに、古い教科書を出してきては、私と妹にここだけ見て
いきなさいと、国語の教科書を押し付けてきたのは忘れられません。

毎日のことだったので、それが当たり前になっていまいた。

いつしか、友人と比較されながら育った私たちは、他人の目を気にするようになっていました。

他人の目を気にするようになった私たち

他人と比較され育てられた私たち兄弟は、自然と自分たちも周りと比べるようになってい

ました。しかも人と比較しては、優越感を感じるのではなく、劣等感を感じるようになって

いました。

小学校低学年までに身に付いた考え方は、その後の人生に大きな影響を与えることをつくづく実感しています。

その後、中学、高校と進学し、大学に入った頃、とてつもない生きにくさを感じ始めました。

とてつもない不安感が襲う

代表でゼミの発表をする場面があり、初めての事だから緊張しているなと感じながら、登壇した時、私は急な動悸とアブラ汗、そして頭の中が真っ白になって倒れそうになったのです。

それ以降は、覚えていません。

翌日から、心臓の鼓動が気になりどうしようもなく落ち着かなくなりました。

その時には通常の内科に行き、心臓神経症だと診断を受け、頓服薬をもらい、薬とともに大学生活を送るようになりました。

今まで親がこうしなさい、という敷かれたレールの上を生きてきた私は、自分で選択をする、決断することをしないできました。

その主体性の弱さ、意見を言えない事で完全に自信というものがなくなっていたんです。

 

就活から就職1年目の頃

私は、不安なまま大学生活を4年間過ごし、既に就活の時期となりました。

今まで、ずっと他人に決めてもらってきた人生、簡単には変われませんでした。就職活動にまで母親は口を挟んできました。

大学もやりたい事があって行ったわけじゃなく、親がこれからは大卒の方が有利だからと、ごく普通の経済学部に入り、就職も特にやりたい事があった訳でもありませんでした。

自分という人間が、何が得意で、何が好きで、何をやりたいのか、そんなこと考えた事もありませんでした。

そんなこんなで、自宅から近い所を探し、自動車販売会社の営業に早々に就職が決まり、営業かぁと深くも考えずに残りの大学生活を堪能していました。

そして4月になり、いざ就職となってからの痛手は半端なものではありませんでした。

新入社員なので当然、教育を受ける訳ですが、営業のロールプレイングにとてつもない違和感を感じたのです。

そう、あの大学のゼミの発表と同じ、動悸、アブラ汗、頭の中が真っ白になる症状が出たのです。

「怖い」ただ、それだけが頭に浮かびました。

その後、研修をはじめ、営業ノルマ、お客様とのやり取り全てが不安と化したのです。

やがて、3年目に入った頃、パニック障害を発症したのです。

パニック障害と不安障害の併発

パニック障害と不安障害を併発した私は、営業の仕事は続けることができずに転職することにしました。

家の近くの大企業で総務事務の募集をしており、パソコンもやっていたし、事務職がいいなと思い応募したら運良く採用を頂き、その会社で、約23年間働くことになります。

総務という仕事柄、会議やミーティングでの司会や進行もありましたが、緊張が酷くまずいと思った時には頓服薬を飲んでは必死にこなしてきました。

そんな中でも、やはりHSP気質、一度メンタル疾患を患っていることもあり、週5日の勤務が厳しくなることもあり、休職も2度経験しました。

2回目は約6ヶ月休職し、リワークという復職支援施設にも通いました。そこで、認知行動療法などの考え方を変える方法を習得し、チームでリーダーシップをとる練習なども行いました。

こうして様々な方の力添えの元、6か月後には復職する事ができ、本当に感謝でいっぱいでした。

その後、異動もあり調達部門や物流なども経験し、色々と学ぶ中、物流の仕事が思った以上に体力を使い、そこからメンタルへと影響を及ぼします。

これ以上休むことはできないというプレッシャーから再び勝つことができませんでした。

休職から転職、そしてコーチングへ

約23年間の間に2度の休職をし、今度の休職は3度目。さすがに会社側も黙ってはいませんでした。

私は、今回の休職でそのまま退職だなと覚悟をしました。それからと言うもの、以前から勉強してきたコーチングの仕事に一層力を入れるようになりました。

案の定、3回目の休職は、復職も難しく退職を決意しました。

その後、運よく間髪入れずに転職が決まり、介護施設の事務職に就職しましたが、人間関係が上手くいかず約3カ月で退職しました。

現在は、数年前から実施してきた、コーチングの無料相談を含め、約1000名の相談経験と、自身のメンタル疾患の経験を元に派遣社員で働きながらコーチングに携わっています。

私は現在でもHSP気質ですが、私自身がコーチングを受け、パニック障害、不安障害が寛解しHSP気質も症状が軽くなったのは、共に伴走してくれたコーチのおかげだと本当に感謝しています。

コーチングを受けるタイミングがもっと早ければ退職せずに済んだかもしれませんが、後悔はしていません。それは今、多くの方の相談にのらせて頂いている自分が楽しく、好きだからで

副業から本業のコーチングを目指して

今は、まだ兼業という形ではありますが、いずれコーチングのみで仕事をしていくつもりでいます。

私は育った環境により、主体性のなさ、自信のなさからメンタル疾患を発症し、休職も経験し、このままではダメになると、自身でコーチを探し何としてもメンタルを立て直す事を覚悟し、様々なワークやセッションを受け、今があります。

今、悩みを抱えている方も、是非私のように一歩外の世界へ踏み出してみて欲しいと思っています。

そこには、今まで経験したことのないような世界が広がっているかもしれないのです。

もし、私が自身の経験を元に、お悩みの解決のお手伝いができるのであれば、この上なく嬉しいことです。

私のような者でも、這い上がることができたことが多くの方の希望に繋がれば嬉しいと思います。

そう思い、今回私の育った環境として、この長文を書かせて頂きました。

長文になり、最後までお読み頂いた方、本当にありがとうございます。

そして、これからもよろしくお願い致します。

やすし